昭和五十七年五月十五日 朝の御理解


御理解第五十八節

「人が盗人ぢゃと云うても、乞食ぢゃと云うても、腹を立ててはならぬ。盗みをして居らねばよし。乞食ぢゃと云うても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく覧て居る。シッカリ信心の帯をせよ」

 神様が分かってくればくるほど、黙って治める事が出来ます。
 神様が見通しだから、神様が聞き通しだから、と信ずるから黙っておれるのです。黙って治めていけるのです。
 と云うて黙ってさえおればよい。と云う事でもないですね。
 シッカリ信心の帯をせよ。と仰せられるのですから、都度都度に自分の信心の帯が緩んではいないか、しっかりしめ直さなければいけんのぢゃないか。と云う精進、反省がいる。と思うです。
 ただ、黙ってさえおればよい。と云うのでは、信心はそこで、とどまってしまう。
 黙って治める。と云う事は、勿論、神様を信ずるからこそね。
 神様が観ておいでだから、と信ずるからこそ黙って治められるのですけれども、黙って居る、と云うだけではいけんのですね。
 そこから、信心の帯をせよ。と云われる信心の帯がしめ上げられ、しめ上げられていく所に成程、黙って治める、と云う事が、こんなにも素晴らしいんだ。例え人が、馬鹿と云おうが、阿呆と云おうが、ま、今日の御理解で云うと、泥棒ぢゃ、乞食ぢゃ、と云われるような事であってもね。
 神が観て居る、とこう云うのです。
 男は度胸、女は愛嬌、と云ったような事を申しますよね。
 今日、私は、男と云う字を始め田んぼの田と云う字を頂いて、ああ、田んぼの田はおかげの受けもの、とおっしゃるがね。心は田んぼ一反の田の人もありゃ、五反一町、と云うように、広い心の人もあります。
 これは、受けものの時、頂く田。
 ああ、受け物を作る事だ。とこう思うたら、神様がその下に力と云う字を下さったんです。
 そしたら、男と云う字になるでしょうがね。
 そしたら、次にくの一と云う事を頂いたんです。
 女は愛嬌。と云うでしょう。
 男は度胸、女は愛嬌と云う。
 確かにね、変わりあろうはずないけれども。
 例えば、阿倍野の伊藤先生なんかは、女で最高の徳を受けられた方でしょうが、一切を喜びで受けていかれる、と云うのですからね、それこそ、喜びに喜んで、あの阿倍野の御比礼があるんです。
 それこそ、喜びの固まりのような方なんですね。
 愛の心が大きいんです。
 神様に対する愛嬌です。
 どんな場合でも、嫌な顔なさらないね。
 神様の前に、いつもにこやかで受けておいでられる。喜びで受けていかれる。
 これが、女の信心と決まった訳ぢゃないけれども、女は愛嬌、と云われる由縁ぢゃないか、と思うですね。
 男は度胸、とね。
 小倉の桂松平先生の御信心なんかは、非常にドン腹の出来たお方であった。
 信心度胸の厚いお方であった。
 男らしい御信心であった。と云う事になりましょうね。
 本当にね。おかげおかげの時代から神様がお徳を下さろうとする信心に入ってまいりますと、どうしてもやっぱりね。おためしを受けますから、そのおためしにパスしていく為には、神様を信じて疑わない、と云う事と同時に信心の度胸がいる。と思うね。
 男は度胸である。女は愛嬌である。ね。
 そこに喜びに喜んで道が開けてくるし、ね。ママよ、と云う度胸。 ママよ、とは死んでもママよ。の事で、と云ったような、心を出さしてもらう。と云う事ね。
 様々な難儀に出会いますと、やっぱり、それを難と見ますからね。 今の合楽で申しますように、一切神愛だ。
 もう育てて下さらなきゃおかん働きなのだ。というふうに分かってしまえば、何でもないようですけれども、分かるまでがね。
 ウロウロします。そして、どうぞ、どうぞ、とおかげばかりを願います。これは、私自身の事でもありますけれども、これ以上の貧乏はなかろう、と思う程の貧乏を致しましたがね。
 やはり、あちらにもね借金がある、こちらにも借金がある。催促を受けても払えないからと云うて、いつ頃まで待ってくれと、云いますと、又、いつ頃なっても払えませんから嘘になる。何とかして、おくり合わせを頂きたい、と思うて親戚の誰彼をたよってみたりね。 あの人に頼んでみろか。この人にも頼んでみろか。と思うて、そういうおくり合わせばっかりを願っとった時代がやっぱあるんです。 ところが貸し手もなからなければ、相談に乗ってくれる人もないようになって初めて心が定まってくる。ママよ、と云う心なんです。ドン腹ですね。
 例えを云うなら限り無く、色々沢山ございましたがね。
 不思議にママよ。と云う心が出来ますと楽ですね。
 あの時分に私の信心度胸と云うものは、出来たんでしょう。
 又、あの時分にいよいよ神様の確信と云うものが出来てきたんだと、云うふうに思います。
 これは、女の方、男の方と区別する訳ぢゃないけれどもね。
 その両方とも出来なきゃなりませんけれども、まず、女の方達の場合はです。
 一切を喜びに喜んで開ける。この喜ぶ稽古を一生懸命なされなきゃいけませんね。
 男の方達はね。
 それこそ、いよいよ此処が男の受け所とね。
 成程、信心しょって、どうして大坪さん方は、あんなに貧乏しなさらんだろか。と云う時代があったんです。
 私がおかげ頂かん筈はない。と云いもすりゃ、思うてもおりましたがね。
 あまり信心に熱中致しますから、それこそ信心気違いにならしゃったぢゃなかぢゃろか、と云うような評判まで立ちました。
 色々神様からお知らせ頂いて、神様からのお伝えを分からして頂くようになりましても、やはり貧乏は続いてました。
 私の信心を止む止まれん一生懸命の信心しておると、人は気違いぢゃろか、ほいとぢゃろか、と申します。と神様にお届けさしてもらいよると、そうぢゃお前は気違いぢゃ、と神様はおっしゃったんですね。
 けれどもね。あの笹を肩げて、歩く気違いではない、お前の気違いは、人間から神へ向かっていく気違いぢゃ、と云う。
 心が変わっていくんだ。人間から神へ向かって進んでいく気違いなんだ。と云うような、お知らせを頂いとった時分がありました。 ですから、どうしても自分の心が神に向かっていく精進が出来ておらなければいけない事が分かるでしょうが、ね。
 例え、人が乞食ぢゃ、と云うても、泥棒ぢゃと云うても腹を立てなさんな。神が覧ておるね。
 シッカリ信心の帯をせよ。と云う事は、いよいよ人が気違い、と云うてもです、そのきちがいの違い方が違うね。
 神様へ向かって進んでいきよる時である、と云う神へ向かっての精進がなされなきゃいけない。
 ただ、気違いと云われても、馬鹿と云われても、ただ、辛抱して黙ってこらえときゃいい、と云う事ぢゃないでしょうね。
 これは、神様がいよいよ、お徳を下さろうとしておるなあ、と感じれたらね、本気でママよの心を出さなきゃダメだ。お徳はいつまで、いつまでも、そこで堂々まわりです。
 おかげおかげばっかり云うとったんぢゃね。
 ですから、ママよとドン腹すえてですね。
 ママよとは、死んでもママよ、の事でね。いうなら田んぼに力である。
 いよいよ、おかげの受け物に、力が頂ける時である。なかなか死んでよママよ、と云う心にはなれませんね。
 ママよ、とは思うとるけども、死んでもママよ、とは思いきらん。 その辺の所がですね。やはり、何と云うか、いよいよ神様を信ずる、何か一生懸命の信ずる事が出来る力と云うか、信心が出来なきゃなりませんね。
 そこの体験が出来てまいります時にですね。いよいよ、おかげの受け物ではない、お徳の受け物が出来るね。
 人が泥棒だ、乞食だ、と云うてもね。
 只、おれは泥棒しとらんから、神様は覧てござるから、だけではいかんね。 信心のそこから帯をし直さなきゃいけん。
 信心の帯をシッカリし直します、とね。
 神様とそれこそ一対一の、本気で神様との対決とでも申しましょうか。
 神様に一心にすがる。その勢いがちごうてきます。その勢いのある時でなからなければ、なかなか度胸は出ませんね。
 その勢いがですね。神様と心中しよう、と云うごたる気になってくるですね。
 それこそママよ、と云う心が出来てくるんですね。
 信心の度胸と云うのは、そのような時に頂けるもんです。
 今日は皆さん。男は度胸。女は愛嬌。
 信心も同じ事が云える。
 度胸がいります。お徳を受けたい、と思うなら度胸がいります。だから、度胸を下さろうとする働きが分かります。
 ですから、そこで一つ本気でなれませんけれども、一生懸命な信心が、白熱化してくるね。
 赤い火の時には、まだ熱情程度ですけども、その赤い火が白く燃えてくるようになりますと、白熱化と云います。
 そん時には、矢でも鉄砲でももってこい、ね。
 ドンと、受けて立たれる。心が生まれますね。
 どうぞ一つ信心の度胸を作って下さい。と同時にね。女は愛嬌と云われる一切を愛の心で、いつも神様の前に、どんな事であってもニコやかに御礼の云えれるような心。
 そういう男の女の心が、自分の心に一緒に育っていくようなおかげを頂く時に本当の合楽世界の、いわゆるお徳の世界。おかげの世界が開けてくる。と思うですね。
                        「どうぞ」